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2013.08/22(Thu)

スタニスラフスキー探偵団Workshop

スタニスラフスキー探偵団Workshop

 過日、高名な映画監督であり日本映画大学助教授の細野辰興先生主催のWorkshopにお邪魔した。先生とはTwitterでお声をかけていただいた後、池袋のオールナイト映画で俳優高橋克典氏との対談を拝見した経緯があり、是非お会いしたいと思っていたからだ。先生も私の本の数冊に目を通していただいていたようで、Workshop参加のご快諾を得た。
 映像、演劇にはまるで門外漢の私がこうした会に興味を抱いたのは、「文を読む」ということが何を意味するのかを知りたかった、という職業的な興味もあったが、何よりも「創作」の現場に立ち会いたかったからだ。
 存在しないものを新しく作り出す---どういった種類の創作であれ、無から有への転換は一定の圧力がなければ成功しない。分娩に息みが必要なのは自然の摂理だ。創作に携わる人間は不可避的にその圧力を作り出すための、世間と隔絶された濃密な時間を必要としている。そして同時にそういった時間に耐えることができる内圧を必要としている。
 それは私のような、外国語の解説を生業にしている人間にも当てはまる。誰の手からも滑り落ちてきた、調和・均衡・斉一性を原稿に1つでも入れようと思えば応分の圧力を必要とする。本は創作であり、製造ではないからだ。「現場に立ち会いたかった」のは、自分のなかで決定的に欠けている圧力・熱狂を取り戻したかったということなのだと、今にして思う。

 「役者が役を成功裏に演じる」は徹底した理解によってしか到達はできない---このワークショップ数時間で私が学んだのはこのことだ。「徹底した理解」とは、役者が放り込まれる「ドラマ」とう形式が本質的にもつ流れ---監督は「ドラマの本質」ということばを使っていたが---の理解であり、当該のドラマがどこに向かっているのかという具体的なベクトルの理解であり、そのベクトルを構成するシーン1つ1つの前提となる---脚本にあらわれない---登場人物間の関係性の理解である。
 もちろんWorkshopであるから、参加者は実際に演技を求められる。各々の解釈に従ってユニークな演技がありそれも見学者の楽しみであったのだが、驚いたのは、「理解していなければまるで演じることはできない」ということ、そのことである。こうしたことは、観念的には理解していたつもりではあったが、現実に突きつけられると愕然とさせられる。
 結婚を決めた若い2人を迎える中年夫婦は、それらしくセリフを読むだけではまるで作り物にしか見えない。そこにその夫婦がいるのではなく、その夫婦になろうと必死に物まねをしている別の人物がいるようにしか見えないと言うことだ。表情も所作も仕草もすべてが上滑りをする。

 このWorkshopは---初日数時間だけの参加であったが---参加者に細野監督がSTEP BY STEPで深い「理解」を促す作業であったと思う。まずは「ドラマ」に対する理解。次に「関係性」に対する理解。各々の理解の後に実際の演技が行われる。その間、監督は一切演技に関して指導も批評もしない。だが、受講生はゆっくり歩を進める。人形から人へ。人から夫婦へ。夫婦からドラマへ。

 監督はしばしば「人生に大根役者はいない」(うろおぼえ)と口にされたと思う。演技というものが理解と直接につながっていることを考えれば、このことばは深い。
 我々は常に多層的な因果の網に絡め取られて生きている。学校の教師であり、子どもが2人いる父親であり、武蔵野線の乗降客の1人であり、急な曇り空を憂鬱な思いで眺めている、そのすべての流れの結節点を生きる人間として、「彼」はあるとき存在している。彼を絡め取っているあらゆる因果への「理解」は、彼の意識の表層に出てくることはほとんどないが、彼の行動すべてを規定する。重層的な因果によって動かされるのが人間であるとすれば、彼のあらゆる行動は必然的に因果に寄り添って行われるのであり、離れて意味なく浮ついた行為を行う「大根役者」には原理上なり得ない。「大根役者」になるのは、「彼」になろうとして彼の存在する重層的因果の座標点を理解し損ねた役者だけなのだ。

 私の創作---そんなものがあればだが---はいつも人間をよりよく理解したいという欲求に向かっている。人はなぜこれほどことばを器用に扱うのか。なぜ造作もなくこれほどの複雑な計算を瞬時に行えるのか。イメージも新しい学校文法も私の仕事はすべて---完成は程遠いにせよ---そうした問いに対する解答であった。
 今回のワークショップが削りだしたものは、演技の技術というより人間という生き物の「形」だ。そして私にとっては曾ては強烈に感じていたはずの人間性に対する畏怖の念だ。セリフを与えただけで模写することなどできない、誰もが宿している複雑性であった。
 
 まだ書きたいことは山ほどあるが、そろそろ自分の創作に戻ろう。監督も、参加者も、あの場にいた人間は巧拙の別はあれ、誰もが闘っていた。僕だけその闘いから免除されるわけにはいかない。

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 今回の見学を許してくださった、細野辰興監督とお世話いただいたスタッフの方々、ご参加のみなさんのご厚情に深く感謝致します。次回参加の折りには1度くらいセリフを言ってみたいとも思っています。
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